研究室の机の前に「《理予》性」と書かれた色紙がある(《》内は一字)。大学院の恩師「妻木老人」の退官記念にいただいたものだ。彼は退職後、大学のすぐ近くにある妻木という集落に住んだことから、妻木老人と名乗っているが、もちろん「サイコロジイ」のダジャレである。物事について筋道を立てて考える「理」と、伸びやかで自由なことを表す「野」が里を介してつながっているのが面白いが、こちらただの駄洒落ではない。その両方を発揮して研究に励みなさいという恩師の教えだろう。実際、研究をしていると、「理性」が意外と「野性」に近いことに気づく。一方で、「野生のナヴィゲーション」を研究していると(同名の本が、文化人類学者の野中さんの編著で古今書院から出ている)、「野性」と呼ばれている能力こそ、実は「理性」の発揮なのではないかと思う。
世界には、砂漠や海洋のように、ほとんど目印のない場所で長距離の移動を完遂する人たちがいる。そこでは、ナヴィゲーションの失敗は死をも意味する。それが野生のナヴィゲーションだ。彼らのナヴィゲーションは、昔から文化人類学者や心理学者の注目を集めてきたが、1960年後ごろまでは、それが不思議な能力であると思われてきた。たとえばポリネシア人が航海中の場所を「把握する」方法であるエタクなど、どう聞いても呪術的にしか思えない。研究が進む中で、それらは、決して「第六感」ではなく、人間の空間把握に即したものであり、環境に適合したものであることも分かってきた。「自然は導く」(ギャティ・H(1958/2019).みすず書房)は、今年翻訳されたものだが、原著は1958年に公刊されている。だから、この本でギャティが繰り返し「(いわゆる方向感覚には)第六感は存在しない・・・必要なのは感覚と、自然のしるしを読み取るための知識」だと主張しているのは、慧眼と言える。
かつてポリネシアの航海術を知った時、「確かに、何も見えない水平線の向こうに島があると知った後は、そこに出かけていくのは知識とスキルの問題だが、最初は偶然であり運任せだったのではないか」という疑問がずっと残っていたが、この本がそれを解消してくれた。ギャティによれば、海鳥は種類によって、生息地やわたりに違いがある。キョクアジサシは北半球の高緯度地域で繁殖し、多くの個体が南極大陸まで渡り、局所的な陸地のあるなしとは関係なく見られる。一方、シロアジサシは、陸から64km以上離れることはめったにない。陸からの距離は種によって違う。彼らの生態が分かれば、たとえ陸地が見えなくても、陸地からの距離を推測することができる。また彼らを追って陸地を目指すこともできる。彼は古来の人々が、こうした知識を利用して、未知の陸地を目指して航海に出ることができたのだろうと記している。
興味深いのは、本書の章ごとのページ数である。風やにおい、太陽、星、海鳥などといった、自然の中にあるしるしについての章からなっているが、その中で例外的に長いのが海鳥の章で、他の章のページ数を圧倒的に引き離して42pもある。なぜ長いのかと言えば、そこで記述されていることが、一つ一つの観察で分かることではなく、「**鳥は陸地から**kmあたりにいる可能性がある」と言った、組織的な観察の結果だからだ。その意味で、感覚という「野性」的な情報は、組織的に整理された「理性」的な知識があって初めて意味をなす。だからこそ、ギャティが言うように、訓練と知性・推論能力がそこで生きている上では鍵になる。
南極観測でのフィールドアシスタント(FA)の方へのインタビューを元に、彼らがどんなふうに極地の危険を捉え、また対応しているかを論文化している。その中にも、同じように野性と理性の協働と思われるアプローチが何度も出てくる。あるFAは次のように、語る。「特に(海氷上で)沖合にでたらそれほど極端な変化が起こらないんですけど、海岸部は、干満の差でクラックが出来たりしますから、それとか危ないですし。沖合でもずっと、海氷の厚さ計りながらいくと、夏の間に海水面になったところとの境で極端にこうガクンと氷厚が薄くなってってのがあります、そういうのも最初は分からなかったですが、二回目行くとその前の年の夏に見てますので、ヘリの上から、この辺は夏とけてたから薄くなってるとか。・・・あとはもうとにかく、きょろきょろして、それは山でも同じですが。」あるいは、海氷上のパドル(溶けた水の池)は、青から緑/暗緑色にかけて色合いが様々だが、緑っぽい時には底なし(海まで抜けている)であり、より危険であることが多いという。海とつながっていれば、塩分と有機物の入った水がしみあがってくるからそうなるのだろう。これなども、海水と海氷の構造についての知識がなければ「緑は危ない」と分かっても、その理由が分からないAI状態になる。
今、眼の前で見ている状況が意味をなすのは、体系的な情報収集とそれを集約した知識のお陰である。それがあるからこそ、致命的な環境の中でも、あまりびくびくせずに生きていくことができる。そこでは間違いなく、「理予性」が働いている。