16. Risk Quest

親父がくも膜下出血で倒れて、新潟県小出の病院に入院してしばらくして、脳髄液がたまって手術が必要だという。昨今の医師は訴訟リスクを恐れてか、ポジティブなことをほとんど言ってくれず、話を聞くと気が滅入る。脳髄液を出さないと水頭症になるし、手術にはそれなりのリスクがあるという。水頭症になれば確実に死に近づくので、手術を受けないという選択肢はないのだが、究極の選択とはこのことだ。ベネフィットを追究すればリスクがあるということは、リスク研究をするものにとっては当然のことなのだが、それでも身内の命が掛かっていると考えると、そう簡単には割り切れない。それでも、所詮は人の命に対する判断だったのだと、今回思い知った。話は、健康診断の結果に遡る。

 

 健診への判定が出て、今年の参加が不可となった時、それなら治療ができれば来年は参加できるかもしれない、と考えた。知人に循環器の専門医にセカンドオピニオンを求めた。あれこれと骨を折ってくれた結果、やはり骨盤内に動静脈ろう(短絡)があるのではないかという結論になった。もともと検査を受けた市内の病院での診断もそうだったので、おそらくその可能性が高いのだろう。彼らも見たことがない状況で、「学会発表ものですよ」と言われる。「人工透析の患者はみんなそうなってます」とも言われるが、そんなことが先天的にありえるのだろうか?でも、心臓なんかではないことはないらしい。いずれにしろ先天的なものだと思われるので、言ってみれば生まれた時から南極に行けない身体だった訳だ。2017年、南極にいけたのが幸運だった。

 

 この診断を確定させるために、カテーテルによる血管造影を行うことにした。小心者としては、血管に管を通すだけでも気持ち悪いのに、なんと脳梗塞の発症リスクが1/1000という。脳梗塞であって死亡ではないのだが、それでも、1/1000という確率にはビビってしまう。社会的に受容できるリスクは、だいたい1/10万のオーダーだという。能動的に受容できるリスクはそれより1桁大きく1/1万のオーダーだというのが定説だ。一時は交通事故の死亡率はこれより高かったが、今では1万に0.3くらいなので、社会的に許容できるリスクにかなり近づいている。造影をしようとすればこの程度のリスクがあるが、造影をしなかったら、詳細が分からず、この時点で来年の観測隊参加もthe endとなる。1/1000個に一個弾丸の入っているロシアンルーレットで生き延びたら願いを叶えてやる、と言われたら、ちょっとなあ・・・。究極の選択だ。

 

 自分の発症確率はきっと1/1000よりも小さいと思う。リスク心理学の言葉で、これを楽観主義バイアスと呼ぶ。これは、もともと対象集団に、「あなたの運転技術は平均以上か?」と聞くと、半数よりかなり多い協力者がyesと答えることから、「誰かが」自分の力量を実際より高く見積もっているという現象を指す。一方で、個人によってそれを信じるに足る客観的なデータがあれば、それはバイアスとは呼べないだろう。血管の弾力性の検査で、自分の血管の年齢はだいぶ若いことは分かっている。信じるに足る理由があるのだ。そういう思考自体がバイアスなのか?こんな時は、ノーベル経済学賞を受けたカーネマンよりも自然主義的意志決定論のグル、G.クラインを信じたくなる(Kahneman & Klein, 2009参照)。

 

 診断が確定しても、手術ができるかどうかは分からない。動静脈ろうがあるとすれば骨盤の内部らしい。命に関わるならやってくれるのだろうが、さすがに健常者の内臓をかき分けて手術することはできないということか?いやはや、将来の不確実なメリットと現在の不確実なデメリットの選択。プロスペクト理論で説明できるのだろう、カーネマンさん!?

 

 まるで「青い鳥」だ。南極まで出かけていかなくても、こんなに身近にリスクを探求する素材があったとは。リスク心理学でおなじみのテーマが後から後から湧いてくる。