わが部屋には猫がいっぴきいた。オスの三毛猫である。劣性遺伝である三毛は通常メスにしか生まれない。オスの三毛猫は一種の染色体異常であり、生まれる確率は相当低い。だから、幸運の運び主だか航海の守り神にされているようで、第一次南極地域観測隊に、贈られたエピソードが残っている。この猫は観測隊隊長の永田武にちなんで「タケシ」と名づけられ、越冬後は一番懐いた通信隊員の作間敏夫さんに引き取られ、天寿を全うした。わが部屋の猫もこの故事に倣って壮行会の際に贈られたもので、当然名前はコーイチローという(隊長土井浩一郎)。
あまり可愛くない顔だと思っていたけど、単純接触効果からか、次第にその顔が可愛く思えてきた。何より癒される。ぬいぐるみ一匹いるだけで部屋の空気が和む。まだ隊員たちとの打ち解けた関係のできていなかった往路では、ヒヤリングルームに持ち込んで相手をリラックスさせるのにも使った。ぬいぐるみ侮り難し。
もし仮に自分が観測隊の隊長になるのなら、いろんな動物のぬいぐるみを隊員の数だけ買って、一人ひとりの隊員に好きなぬいぐるみを渡す。「ふーん、君は蛇のぬいぐるみがいいの。面白い趣味だね」とか、「そうだよ、やっぱり三毛猫だよ。タケシの逸話知っている?」とか、隊員との話題づくりにも活躍するだろう。もちろん、隊員が可愛がってくれれば、隊員の癒しと精神的健康にも大いに
貢献するはずだ。100匹買っても、せいぜい30万円くらいだろう。個人の幸福のもとに隊を成功させるなら、安い投資だ。
「最後に公室のゴミ箱に捨てられてたら心が痛みますね」と、小心者(本人談)の同室者が気にする。シドニーが近づくと、誰もが荷づくりで要らないものを片付けだす。バフィンブーツが捨ててあったりする。誰からもらったにせよ、3ヶ月も一緒に暮らしたらぬいぐるみでも愛着がわくものだ。そうなるはずのぬいぐるみが捨てられているということは、隊への満足度が低いことの証でもある。ゴミ箱に捨てられているぬいぐるみの数は、隊員の満足度を評価するアンケートよりもはるかによい指標になる。どのみち、アンケートの評価が悪ければ、心が痛むのだ。
わが部屋のコーイチローは、南極の思い出を背負って、日本に帰る。楽しい思い出ばかりではないが、それ自体に人文社会科学の研究者である僕が研究を続ける理由もある。コーイチローはその航海の守り神ともなるだろう。