1960年10月10月、激しいブリザードの中、Y隊員と犬ぞりの点検にでかけた第四次南極観測隊の福島隊員は帰路を見失い、行方不明となった。隊員総出で捜索活動を行ったものの発見することができず、7日後に福島隊員は死亡認定た。その後9次隊の際に遺体が発見された。南極観測隊員唯一の死亡事例である。
南極では30m/sを超える風が吹き続けるブリザードが時折基地を襲う。特に冬期の降雪/積雪時には風によって巻き上げられた雪によって2、3m先すら見えない状態になることもある。そのため、福島隊員の事故を契機に、安全対策として、視程と風速によって外出注意令と外出禁止令が出されるようになった。外出注意令時には、基地主要部の建物がライフロープで結ばれ、外出するときには二人以上で組になって、なおかつ自分の体につなげた命綱からのカラビナをライフロープにかけて移動しなければならない。外出禁止令時には原則として建物間の移動はできない。
対策のおかげで、ブリザードによるリスクは十分にコントロールされたものにはなっているが、そもそもブリザードがどれほどのリスクなのかは、自然環境のリスクを研究するものとしては、ぜひとも経験してみたい。夏である1月の昭和基地での平均ブリザード発生回数は0.5回程度。人並み以上に「嵐を呼ぶ」能力があれば体験できるはずだ。
大晦日ごろから、1月3日前後にブリザードの予報が出た。風速20-30m。そして1月2日の夜8時に外出注意令が出されるという予告が出された。注意令が出されると、基地の主要建物に避難し、人員点呼を取らなければならない。そして、それ以後の外出は必ず事前事後の点呼が必要となる。私たち夏隊は第一夏宿舎(通称:一夏)とそこから250mほど離れた第二夏宿舎(通称二夏)に分宿している。私を含めて約30人の59次観測隊員が寝泊りしているのは二夏である。夕食場所である一夏に集まった後、7:30のミーティングまでは一夏で過ごす。外出注意令まで一夏に待機し、20:00に点呼を取った後、ライフロープを使って二夏に帰ることになった。本来注意令は移動を制限すべき事態なので、やるなら、二夏に戻ってから点呼を各宿舎でとり、無線で確認して注意令を迎えるべきだろう。こういう運用の仕方が、JARE(の安全規則)が形式的だと評価されることがある原因のひとつなのだろう。その是非については、そのうちレビューしたいが、法哲学のフィールド研究の場としても興味深いと思う。
1月2日の夜半から強くなった風は、1月3日の朝には立派な注意令相当の風速になった。朝食は強風の中を一夏に集まって取ることになった。すでに非常食が運びこまれているので、強風の中を無理して一夏にいく必要はないのだが、ここで正論を吐いてもブリザードを経験できないので、黙っていた。朝食後は通常朝礼があるのだが、「今日は作業はなしで、宿舎待機」が簡単に告げられた。
第2夏宿の住民30余人のうち11人が戻ったところで、風速が強まり、9:10に外出禁止令が出てしまった。残り20人は二夏に戻ることはできない。そして私たち11人も水道もない(温水器だけがある)二夏に孤立した。もっとも外出禁止令が出ると、通常は一夏でしかできない大便は二夏の非常用ペール缶トイレが利用できるので、利便性はむしろ向上した。非常食もあるし、部屋は寒くない。なんの不満もない。
外ではブリザードが吹き荒れている。外に出て写真を撮ることはできないが、汚れた窓からではなんだか訳が分からない。おまけに外は晴天なのだ!どうとっても「ブリザード!」という迫力のある映像にならない。
そのうち、二夏の問題が露呈し始めた。建物はブリザード対策で窓のない妻面を北東方向に向けている。妻面にあるボイラの吸気穴から強風が吹き込んでボイラを止めてしまうのだ。機械隊員が何度か修理を試みたが、そのうち諦めたらしく、ボイラが止まった。断熱性に優れた建物はすぐには寒くはならなかったが、ボイラの給水管が壁を抜ける穴から冷気が吹き込んできて、ラウンジの気温が下がってきた。こんなときこそ知恵の出しどころだ。どうせ給水は止まっているのだから、と非常食のダンボールを切ってガムテープで完全に目張り。これで気温の低下はだいぶ抑えることができた。
次の問題は非常食だった。その一部は非常食とは名ばかりで、実際には過去の次隊があまった即席めんなどを残置したものだ。レトルトご飯も、半年前に期限切れはましなほうで、2/3は1年半か2年半前に賞味期限が切れている。しかも、即席めんは調理器具がないので、食べることができない。温水器しかない状況ではレトルトご飯も戻すことができない。せめてα米でもあれば・・・。ここも年の功の発揮しどころだ。温水器の上に乗せてある程度加熱してみる。温水器のお湯でご飯を戻す、さらに温水器で暖めたカレーをかける。なんとか腹を満たせる程度には調理できた。さらには、おかゆやカップめんに、持参した密封パックのローストチキンをトッピング。気分は限りなく村尾嘉陵だ。
夕方になると寒さは増してきた。若者たちは、窓にもダンボールをはって、扉もガムテープで目張りした。最後には「村越さん、こたつ作りました!(年寄りと)知恵比べです!」、と報告に来た。あまった布団とべにや板でコタツを作り、そこでトランプをはじめていた。年の功に対抗する若者がいる限り日本の将来は明るい。
建物にいる限り、身の安全は保障されているのだ。そして夏のブリザードはそう長くは続くまい。みんな窮状を楽しんでいる!ユーモアがあれば、非常時も乗り切れる。結局外出禁止令は21:50に注意令に変わった。22:00からはいずれにしろ夜間の外出禁止になるので、その間隙に、一夏から2人の住民が帰ってきた。13人の住民で一晩を過ごし、ブリザードによる「災害ユートピア」は終了した。
(なおこのときの悪天候は、のちに視程が悪くなかったのでブリザードとは認定されなかったらしいが、風速は間違いなくブリザード級であった)。