1956年の第一次南極観測隊は、国民の大きな支持と支援でスタートしました。NHKのプロジェクトXを見て知ったのですが、そのころ朝日新聞のキャンペーンに対して、全国から多額の寄付が集まったそうです。なけなしの小遣いを寄附した小学生もいたとか。現在極地研究所の白石所長もその一人なのだそうです。今で言えば宇宙飛行にも匹敵する冒険扱いだったのでしょう。
それ以来のブランディングのお陰で、今でも「南極観測」というと、「すごいですね」という反応が多くの人から返ってきます。今でも「南極に行きたい!」と強く願っている人は僕の周りにもいます。
どうしたら南極観測にいけるのでしょうか?まず、思いつくのが研究者。オーロラ、ペンギンなど、誰でも思いつく南極でしかできない研究の他にも、日本の南極観測はオゾンホールの発見、ペンギン以外の様々な南極独特の生態系の研究、氷床や地学的研究で国際的な成果を多数上げています。たとえばセールロンダーネという山塊のそばでは大量の隕石を発見し、日本は南極隕石の最大の保有国でした。雨水による浸食や流出のない南極では氷の上に積もった隕石は氷とともに少しづつ流され、それが山塊のような障害になる地形にぶつかるとそこにたまります。氷床コアの掘削でも過去72万年にわたる古環境の復元に成功しています。南極の氷は銀座でオンザロックにすると5000円だそうです。珍重される理由は、氷に空気の小さな粒が含まれており、それがオンザロックにすると溶けてプチプチと独特の音を出すのだとか。南極は水が凍って氷になるのではなく、積もった雪が押し固められて氷になるのですが、その際、雪が降った時の空気も巻き込んで氷になるため、こういう現象が見られます。深く掘れば掘るほど古い空気が含まれ、それを分析することで数十万年前の大気の状況が復元できるのです。
適当に掘れば得られるというものではないのです。今年出発する59次隊では、これまでよりも古い氷を得られる場所を探索して、来次以降の100年前の氷の獲得を目指しています。
研究者が1年間文明社会と隔絶されて生活するには、その生活を支える人たちが必要です。それが設営です。約10ヶ月を自分たちだけで過ごし、全ての問題を解決しなければなりませんから、機械や電気のスペシャリストが必ず越冬します。たとえば発電機ならヤンマー、建築作業ならミサワホーム、電気なら関電工、車両ならいすゞなど、特定の大企業が毎年のように派遣する領域もあります。そんな企業に入るのも、一つの手かもしれません。ただ、考えてもみてください。一人でその領域の責任を背負う。それだけの人材として大企業がプライドをかけて派遣する社員さんです。それに選ばれること自体、同行者は愚か、研究者隊員を凌ぐ狭き門であることは容易に想像がつきます。
スペシャリストとして直接公募される領域もあります。代表的なのは医師、調理師、そしてフィールドアシスタントです。医師、調理師にも多彩な人がいます。調理師の中には、「ナショナルチームの胃袋を支える」という強い使命感に燃えている方もいます。16人以上の体重を到着時より増やして帰国させるという目標を掲げたものの失敗したため、リベンジに再び南極を目指す調理師の方もいます。
フィールドアシスタントは最近になって採用されている職種です。その名の通りリスクの多い極地での観測活動を安全・装備面で支えます。多くの場合山岳ガイドの方が就いていますが、これも狭き門のようです。過去には北海道で雪崩遭難の防止や山岳に関する記事執筆で有名な阿部幹雄さんや山岳スキーでも活躍されている佐々木大輔さんなども隊員となっています。
その他に気象観測では気象庁から毎年5人程度の派遣があります。今回そのチーフ的な立場で参加する杉山暢昌さんは、静岡大学教育学部の卒業生で2回目の越冬となります。大学にとっても大きな誇りです。
教員で南極にいくこともできます。南極から衛星通信によって国内での授業をする教員派遣の方です。今次隊は川崎市の小学校の教員の山口直子さん、秋田県の高校の教員である須田宏さんが参加されます。
そんな多彩な人たちが約1年間の間外界とは隔絶されて生活する。そこに生まれる絆、そして時に葛藤は部外者の想像を超えて余りあります。リーダーのお手本のように思われる第一次隊の隊長西堀栄三郎氏ですが、中野征紀氏の「南極越冬日記」を読むと、西堀さんの隊長も必ずしも順風満帆ではなかったようです。それでも1年を自分たちだけで過ごさなければならないのが、越冬隊です。
先日も、約45年前の第十五次隊の懇親会に縁あって参加させていただきました。ご存命の最高齢は90歳を超え、二十歳の時に参加した最年少の隊員も今では64歳。ほぼ毎年のように懇親の場を持つ彼らに、南極での越冬の日々の充実ぶりが思い浮かびました。