卒論生と共同で、小学校での危険認知の授業を行った。4-5人の班で校内を20分間周り、危ないと思う場所、なぜ危ないかを探しだし、クラスでまとめて、どこがなぜ危ないか、どうしたらいいかを考える授業だ。
最初の動きが緩慢としていたので、危ない場所がしっかり発見できるかどうか、やや不安だったが、多い班で10個近くを見つけてきた。
次にグループで話し合い、各班の「ワーストランキング」3位までを決める。本来順位のつくようなものではないが、本当に危ないのか、どのくらい危ないかといった話し合いの論点が出てくることを期待している。ランキングを決めるとなると、どうしても「多数決」をするグループが出てくる。そういうグループには「ねえねえ、本当に危ないの?」「どうして危ないの?」と問いかける。子どもどうしだから、些細なことにこだわったり、理由をちゃんと言えないので、うまく議論がかみ合わないことがある。たとえば、遊具がなぜ危ないかという時、「遊んでいるからだよ」という子がいる。他の子が「廊下だった遊ぶじゃないか」と反論すると、行き詰まってしまう。そこで「なんで遊んでいると危ないの?」と聞いてやると、「早く動こうとするから」など、重要な視点が出てくる。彼らは危険の要因はわかっているが、それを総合的にまとめ上げたり、相互に比較して、そこから新たな視点を生み出すことはできない。それは発達段階の限界なのかもしれないし、今の子どもたちが、遊びの中でそういう調整機能を活用してこなかったからかもしれない。
なぜ危ないかをまとめたら、それに対する対策を考えてもらう。「注意する」といった抽象的な対策もでるが、かなり具体的・実行可能かつ役に立ちそうなものが出たことにはびっくりした。たとえば「角でぶつかる危険がある」というのに対して、「大回りをすればいい」。小学生ゆえに個人差はあるが、彼らはある程度危険の存在もなぜ危険かも、どうすればよいかもわかっている。逆に言えば、「・・・が危険ですね」「・・・しちゃいけないですね」というだけでは十分ではないということだ。大人でもわかっちゃいるがやめられない。
そう考えると、これは安全教育における大きなチャレンジでもある。